伝えてくださいと言われて

場末の風情がある宿は、シャワーを使うとあっと言う間に排水が詰まって足元がプールのように水が溜まってしまう宿だったっけ。震える思いで、とにかくぐっすり眠ったら朝がきました。最寄り駅からモノレールに乗って、セントラル駅まで。早速、リュックをコインロッカーに預けます。今回は暗証番号でもなく、まさかの顔認証でした。ロッカーの横にある機会でタッチパネルを押すと、どこから撮られているのかよくわからない、とにかくTPの顔が一瞬で3回、撮影されていました。その後で指紋を登録。本当にこれで荷物を取り出せるのか心配しながら、ガパッと開いたロッカーに荷物を預けます。


駅の中のフードコートで朝食。TPはカヤトースト7.95、私はまたお粥5.9リンギットにしてみました。TPが立ててくれた計画では、今日は青い色が特徴のモスクへ行くらしい。電車に乗って40分、シャーアラム駅に到着しました。あぁ、もし最終日じゃなかったらこの路線のひとつひとつの駅で降りて、ゆっくりと歩いてみたいような、郊外ならではの景色、クアラルンプールの中心地は狭すぎて、狭いところに高層ビルが並びすぎていて、その外側をどうしても見たくて。それでもまだ草原の中の団地やら、沼地の近くの建売住宅やら、世界中が建売住宅の近郊都市になるんじゃないかと思うほどの街並み。駅前から、ガイドブックに書いてある通り、タクシーに乗って、ブルーモスクへ向かいます。見たことのあるような景色、これは、福岡から日田に向かうときのような、ちょっと違うかしら、車で菊池温泉の方に向かうような景色、緑の中に舗装された大きい道がある景色です。


ブルーモスクは、どういうわけか日本人にとても人氣があるらしい、というより、日本人の人たちがツアーで周るルートに入っているらしい、イスラム教の寺院だそう。到着した瞬間に、無愛想な女性から、女の人はこっち、と手招きされて、頭から水色のポリエステル、身体には青色のポリエステル(マジックテープで止める羽織もの)を被せてもらって、しばし入場を待ちます。あたしは秘かに、ヒジャブと言う、イスラム教ならではの頭巾を被ると、この丸顔の横が隠されて、もしかするととても似合って、可愛くなるんじゃないかと期待していました。水色の頭巾を被って振り返ると、TPが腹を抱えて笑って、笑って笑って、写真をぱちぱちと撮ってくれます。撮りながらまだ笑っているので、嬉しくなって写真を見せてもらうと、まさかの頭は丸いまま、さらに丸さが強調されて、丸さが爆発して、笑うしかありません。ふたりであははっと笑って、それでも案内して下さる係の男性から説明を受けて、連れられて、モスクをめぐります。


ブルーモスクのツアーは、中国の旦那さんと日本人の奥さん、その娘さん。あたしたち日本人夫婦、イタリア人カップルの3組で周ることになりました。靴を脱いで歩くタイルの道、イタリア人カップルは世界中のたくさんのモスクを訪れたそう。中国と日本の娘さんは、ガンガンに動画を撮りながらも無口な様子。途中で彼女に「暑いね」と言うと、「日本人?」と聞かれたので、うんとうなずきます。そこからふたりで、この色きれいとか、あれ何だろうね?などと小さい声で、付かず離れず、少しずつお喋りします。彼女は中国に住んでいると言うので、いつから?と尋ねると「ゼロ歳6ヶ月から」と細かい情報を教えてくれて、今回はマレーシアに転校したお友達を尋ねてきたけれどこれからオーストラリアに行って、これから家族で1ヶ月の休みを過ごすそう。あのね、あれはね。本当は彼女のお母さんとお喋りすべきなのに、つい女の子とふたりで対等にお喋りしています。

ブルーモスクのツアーが終わると、それまで中心的存在だったイタリア人カップルはサーッとタクシーの乗って去って行きました。残された私たちは、ぼんやりとお土産ショップに入ったりします。ガイドをしてくれた人が、この先のミュージアムに行ったらと言われたので、素直に向かいます。バイバイと手を振って、女の子一家と別れます。

ミュージアムと言われたところは、赤毛のアンのマリラのような女性が出迎えてくれたガラスの展示場、入った瞬間に、イスラム教とは。そのことを英語で、熱心に説明されます。イスラム教を信仰する人が今、世界中から受けている印象、メディアの報道、それは真実ではないのです、世の中には色んな宗教があります、キリスト教イスラム教、仏教、どうしてだと思う?まさかのクエスチョンが来たので、人はそれぞれ違うからだと思いますと答えると、正解、そう言われます。クイズもあるんだとヒヤヒヤしながら、彼女の英語に耳を必死で傾けて、説明を受けます。イスラム教に関して説明を受けることに同意はしていないけれど、そういう流れになっているので。彼女は、とにかくイスラム教は今、世界から誤解されている、でも私たちは絶対に人殺しなんかしない、一日に何度も祈るのは、見たものをリセットするため、触った汚れを落とすため、聞いたことを洗い流すため、このことを日本の人たちに伝えてくださいと熱心に訴えかけます。そこから先が長くて、先に入っていた日本人のグループは半分キレながら出てくるほどの長さ、説明の途中でまたクイズ、数十分も続く説明、さすがに「次の予定があるんです、もう行かねば」と言うと、予定って何?とのこと、ランチですと答えて、ようやく、開放されました。複雑なことを複雑に受け止めながら、複雑にさよならを言ってモスクを後にします。


クアラルンプールの都心に戻って、お昼ごはん。シンガポールもそうだったけれど、ここマレーシアも、どこもかしこも工事中。工事中の歩道、工事中の建物の横を抜けて、工事中でもうレストランは無くなったかと諦めたところでやっと、ガイドブックによると本格的マレーシア料理を食べさせてくれるレストランを見つけました。


歩いてツインタワーへ。見上げるのが大変なほどの高さ、もうその高さは異常だとすら思うほどの高さ、そしてデザインの完璧さ。輝くステンレス。次、どこへ行こうか、あまりの暑さにぐったりと、TPとの意見も分かれます。TPは2階建てバスに乗って周遊したい、あたしはピーター・ホーというデザイナーのショップに行ってみたい。暑くて元氣が無くなったあたしに、TPは、ヨシ、思い残すことないように門ちゃんが行きたいとこに行こう、そう言ってくれて、願いが叶いました。夢のような空間で、ゆっくりと商品をひとつひとつ見つめて、赤い花柄の肩掛けバッグ、買おうかどうしようか悩んで、おそろいのポーチと一緒に買います。まさしく、思い残すこと無し!


いよいよ残り時間も少なくなって。デパート地下の喫茶店でお茶をして。

セントラル駅に戻って、コインロッカーでTPの顔認証で解錠された箱から荷物を取り出して。電車に乗って、クアラルンプール空港へ行って。25歳の頃、このクアラルンプール空港で乗り換えてインドへ行ったっけ。そのときはどこまでも続く熱帯雨林を、何時間も飽きずに見つめていました。


今日、熱帯雨林の遠くに高層ビルやらタワーやらがちらっと見えるし、夜景の明るさもある。もう帰らなければならないだなんて。まだ何にもしていないような氣がする、まだまだ見ていないもの、感じていないことがあるように思える、でも帰りの飛行機に乗らなければ、また日本に戻ってお仕事をしなければ、飢え死にするしかない労働者は、素直に飛行機に乗って、小さい窓から小さく手を振って、バイバイ、またねとさよならをします。夜の10時半に出発した飛行機は、朝の6時に成田に到着するようです。時差とかよくわからなくなったままで。